All is well

「すべての事は、良い事である」

 

いきなりなんの話なんだろう、、?

最終的には老子の話がしたい。

 

インド映画『きっと、うまくいく』は名作である。

主人公たち3バカトリオは「All is well~♪」と歌いながらいろんなことを乗り越えていく。

明るくて勇気が出る、そんな映画だ。

 

で、この「All is well」を邦題では「きっとうまくいく」と訳したのだろう。

この訳自体はいい意味なのだが、本来の意味とは少しずれてしまったのではないかと思う。

つまり邦題は

「(今は大変だけれど、将来)きっと、うまくいく」という意味に取れるが、

どちらかというと本来の意味は

「(辛く思える今も含めて)すべて良いことである」

 

 

本来この世界は無色透明のフラットな世界である。

そこに我々がいろんな意味付けやら価値判断をして、「主観的に意味付けられた世界」を過ごすことになる。

老子に言わせれば善悪も美醜も無いのである。全部主観。ぜ~んぶ主観。

 

以前、存在は区分だという話をした

混沌とした世界にビッグバンが起きて宇宙が生まれ地球ができました。みたいに現代人は考えているがそうではない。

今なお混沌とした世界なのだが、そこに「宇宙」やら「地球」やら名前を付けているから色んなものが存在している(と認識している)だけの話である。

 

本当は無味無臭のフラットな世界に

私たちは、これは「良いこと」とか「悪いこと」とか主観で判断している。

「今は辛くても、、、」なんてのも主観なのだ。

 

そこで老子この世界の万物はすべて「善」だと言う。

人が勝手に判断する「善悪」以前に、この世界に存在するものすべて善なのである。

だからありのままのこの世界のありように沿うことを「道にかなう」と言った。

 

老子はなぜこの世界自体が善なのかって説明したりはしない。

ただそうなのだ~っていう前提から話を始める。

《ありのままの世界の在りよう=善》と定義づけたのかもしれない。

まあ定義付けたというよりは確信的な口ぶりなのだが、仏教的に

《無色透明のフラットな世界=》と説明されるよりは朗らかである。

 

老子の教えをまとめると

「ありのままの世界」こそ”善”であり、”道”である。

そこ(本来名前など付いていない世界)に名前をつけて区分したり評価したりすると、

本質からずれていく。

これを”道から外れる”という。

逆に”道”ってかこの世界の在りように沿うことを「道にかなう」という。

結論、

『この世界の様々なことを良いとか悪いとか評価せずにありのままに受け入れ、

心の自然な反応に従いなさい』

って感じでいいと思う。

 

意識や思考といったものが判断したり評価したりする。

そしてフラットな世界から「主観的意味付けの世界」に変わり、

本質からずれていく。”道から外れていく”。

老子に言わせれば、そういった意識や思考をすべて取り払うべきなのだ。

子供が公園で遊ぶように心のままに動くべきなのである。

 

私たち人間も世界の一部である。

ありのままの世界=善とするなら、

ありのままの心の動きに従うこと=善であり、意識的な思考によってそれを押さえつけるのは不善である。

 

長くなったので一旦区切る。

自分が存在するってのは思い込み2

前回、存在は区分だっていう話をした。

そして「自分」が存在するのも自分と自分以外を区分しているからだ、という話をした。

 

今回はその続き

 

よく、この世界は仮想現実なのかもしれない!なんて話になる。

映画マトリックスのように

本当は水槽の中に脳みそが並べられてて、AIが作ったヴァーチャル世界を見せられているだけなのかも!っていう話だ。

 

結論から言うと、

それはそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

それは永遠にわからないし、仮にそうだったとして「だからなんだ?」って話である。

 

仮に「水槽の中の脳みそ」が目を覚ましたとして、

じゃあその目を覚ました世界もまた別の仮想現実世界かもしれない。

やっぱり永遠にそれは分からないのである。

だから

世界や自分というものに「実体」があると思っているから、いつまでも謎が解けない。

 

「この世界も自分の肉体も全部幻かもしれない!どこに自分の実体があるんだ!うあああ~~~」

ってことになる。

 

思い出してほしい。存在は区分なのである。

”実体”がどこにあるかは永遠にわからないが、

「認識する主体」と「認識される世界」

この”関係性”があることだけは確かである。

これを縁起思想という。多分ね。

 

デカルトは「我思うゆえに我あり」って言ったけど、

これは半分しか正解じゃない。

確かにどこまで疑っても「認識する主体」があるのはたしかなんだけど、

それを「我」と言ってしまうのは早計じゃないか。

「我あり」ってのは我と我以外を区別しているから存在しているに過ぎないのであって、

区分しなくれば「無我」となる。

 

まあ《認識する主体=我》だと定義しました!って話なら別に間違いとも言えないけれど、

やっぱりそれは区分をしているわけで、、、

 

話がグルグルしてきたのでここで終わる。

自分が存在するってのは思い込み

「自分が存在する」

ってなんなんだろう。

本当に「自分は存在している」のだろうか?

 

誰しも通りすぎる疑問だと思う。

 

じゃあまず「存在する」とは何か定義しよう。

そのためにソシュールの言語論的展開から話をしたい。

 

言語論的展開ってのは

「モノに名前がついてる訳じゃなくて、名前がモノを区分しているに過ぎないんだ!」

っていう発見のこと。

例えば

赤い果物に「リンゴ」っていう名前がついてる訳じゃなくて、

黄色い果物(バナナ)とか紫色の果物(ブドウ)とかから区別して赤い果物(林檎)が存在しているって話なんだ。

 

つまり

A”が存在する=”A”がA以外のものと区分されている

ってことになる。

存在は区分だったんだね。

 

犬も猫もリビングも福岡県もみんな

それ以外のものと区分されているから「存在」している。

 

クラスの中に山田君も花子さんも存在するけれど、

蟻の群れの中に「アリ太」や「アリ夫」は存在しない。

だって区別していないから。

他と区分するってことは、それにそれだけの価値を認めるってことでもある。

 

話を戻そう。

存在は区分だということが分かった。

そしてそれは「自分」に関しても例外ではない。

 

「自分」を自分以外のものと区分しているから、”自分が存在している”(と認識している)

それだけなんだね。

ちなみにこの「自分を認識する作用」のことを『自我』という。

自我は認識する”作用”であって、”主体”じゃないことがミソだ。

 

まとめると

自分:「自分」⇄「他者」  っていう区分されたもの

自我: 自分 「自分」  っていう認識作用

 

 

創世記でアダムとイブが蛇にそそのかされ

「禁断の知恵の実」を食べたとき、二人は葉っぱで自分の体を隠したという。

 

人間が「知恵」を獲得して最初にすることがそれか?

もっとすごい事しても良さそうなのに。

でも最初にしたのは体を隠す事だったのだ。

つまり「知恵」を獲得したと同時にアダムとイブは「自我」も獲得した。

だから「恥ずかしい//」っていう感情が出てきたんだね。

 

それまで楽園の他の動物たちと一緒に

「草うめえ」とか「木ノ実美味しい!」って幸せに生きていたが、

知恵と一緒に自我を獲得した事で

「私は他の動物たちとは別個の個体だ」というめんどくさい感情が芽生えてしまった。

そして

自我が芽生えたことで「さみしい」という感情も生まれる。

だって「自分」は自分一人だから。

 

話が長くなったので次に続く。

愛とは何か

愛とは何か

 

まあ臭いタイトルな訳だけど、

 

社会学的に言えば

「愛=理由のない利他性」

経済学的に言えば

「愛=贈与」

 

家族だから愛するとか、好きな人だから愛する

みたいなのは愛じゃなくて差別なんだね。

 

聖書的に言えば

「善なる者の上にも、不善なる者の上にも雨は降る」

つまり

良い奴だろうが悪い奴だろうが神様は恵みの雨を振らせてくれる。

 

だから人間も神様の愛と同じように誰に対しても愛を施そうね!という話。

だと思うよ、多分ね。

 

「汝の隣人を愛せよ」っていう一説は有名だし分かる。

家族とか身近な人を愛しなさいってのは当然だよね。

ただ聖書がやばいのは

「汝の敵を愛せよ」って言ってくること

めっちゃ難しいよね、憎くてしょうがない人も愛しなさいだなんて。

でもそれが愛なんだよ。

『理由のない利他性』なんだから。

相手が誰とか関係なく愛せよ。っていう。

 

仏教的に言えば慈愛。

 

広告のキャッチコピー風に言えば

「優しくしてほしいのが恋、

 優しくしてあげたいのが愛」

みたいな感じになるんじゃないかな

 

言ってしまえば、恋は執着心な訳だけど

愛は自分の能動的な行為なんだよ。

だから愛は対象の問題じゃない。

戦争で人を殺すのはいいの?

戦争で人を殺すのはいいの?

 

前回、前々回の論法と同じである。

繰り返し

《悪い=特定の共同体にとっての不利益》

と定義すると

 

敵国の人間を殺すことは

味方の国にとっては利益となるので「善」だが、

敵国にとっては不利益となるので「悪」だ。

 

そして人類全体からすると共同体のメンバーが殺されるなんて

不利益でしかないので「悪」である。

 

やっぱり善悪を語るときは”主語”が必要だね、

というお話でした。

豚を食べるのは悪いことだろうか

豚を食べるのは悪いことだろうか

 

前回の記事に引き続き、

「悪い」とは何かを定義すれば済む話である。

 

《悪い=特定の共同体にとって不利益なこと》

と定義してみる。

 

とすれば

人間からしたら美味しいお肉が食べられることは利益であり「良い」ことである。

逆に豚さんからしたら殺されて食べられることは明らかに不利益であり「悪い」ことである。

 

よくヴィーガンとそれ以外の人たちで「動物の権利!」について口論しているが、

どちらが正しいとかないのである。

ただ利害が対立しているだけ!!

 

だから「豚を食べること」は

豚と、豚を共同体のメンバーだとみなす人たちからしたら「悪いこと」であり

それ以外の人たちからしたら「良いこと」である。

 

まとめると

物事の善悪を語るときには「主語」が必要ということだね。

なぜ人を殺してはいけないのか

なぜ人を殺してはいけないのか

答えは簡単である。

端的に言えば「迷惑」だから。

 

「なぜ人を殺すことは悪いことなのか」

という命題があったとき、

人はすぐ「人を殺すということは~」と議論を始めようとする。

 

そうではなく、「悪い」とは何かを定義すれば簡単な話なのだ。

仮に

《悪い=特定の共同体にとって不利益なこと》

と定義してみる。

 

とすれば殺人ははっきりと「悪いこと」である。

だって殺されたくないし。

日本という国にとって「殺人」も「殺人が合法化されること」も不利益である。

殺されるのは嫌だし、

殺されるかもしれないとビクビクして暮らすのも嫌だもんね。