自分が存在するってのは思い込み2

前回、存在は区分だっていう話をした。

そして「自分」が存在するのも自分と自分以外を区分しているからだ、という話をした。

 

今回はその続き

 

よく、この世界は仮想現実なのかもしれない!なんて話になる。

映画マトリックスのように

本当は水槽の中に脳みそが並べられてて、AIが作ったヴァーチャル世界を見せられているだけなのかも!っていう話だ。

 

結論から言うと、

それはそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

それは永遠にわからないし、仮にそうだったとして「だからなんだ?」って話である。

 

仮に「水槽の中の脳みそ」が目を覚ましたとして、

じゃあその目を覚ました世界もまた別の仮想現実世界かもしれない。

やっぱり永遠にそれは分からないのである。

だから

世界や自分というものに「実体」があると思っているから、いつまでも謎が解けない。

 

「この世界も自分の肉体も全部幻かもしれない!どこに自分の実体があるんだ!うあああ~~~」

ってことになる。

 

思い出してほしい。存在は区分なのである。

”実体”がどこにあるかは永遠にわからないが、

「認識する主体」と「認識される世界」

この”関係性”があることだけは確かである。

これを縁起思想という。多分ね。

 

デカルトは「我思うゆえに我あり」って言ったけど、

これは半分しか正解じゃない。

確かにどこまで疑っても「認識する主体」があるのはたしかなんだけど、

それを「我」と言ってしまうのは早計じゃないか。

「我あり」ってのは我と我以外を区別しているから存在しているに過ぎないのであって、

区分しなくれば「無我」となる。

 

まあ《認識する主体=我》だと定義しました!って話なら別に間違いとも言えないけれど、

やっぱりそれは区分をしているわけで、、、

 

話がグルグルしてきたのでここで終わる。