自分が存在するってのは思い込み

「自分が存在する」

ってなんなんだろう。

本当に「自分は存在している」のだろうか?

 

誰しも通りすぎる疑問だと思う。

 

じゃあまず「存在する」とは何か定義しよう。

そのためにソシュールの言語論的展開から話をしたい。

 

言語論的展開ってのは

「モノに名前がついてる訳じゃなくて、名前がモノを区分しているに過ぎないんだ!」

っていう発見のこと。

例えば

赤い果物に「リンゴ」っていう名前がついてる訳じゃなくて、

黄色い果物(バナナ)とか紫色の果物(ブドウ)とかから区別して赤い果物(林檎)が存在しているって話なんだ。

 

つまり

A”が存在する=”A”がA以外のものと区分されている

ってことになる。

存在は区分だったんだね。

 

犬も猫もリビングも福岡県もみんな

それ以外のものと区分されているから「存在」している。

 

クラスの中に山田君も花子さんも存在するけれど、

蟻の群れの中に「アリ太」や「アリ夫」は存在しない。

だって区別していないから。

他と区分するってことは、それにそれだけの価値を認めるってことでもある。

 

話を戻そう。

存在は区分だということが分かった。

そしてそれは「自分」に関しても例外ではない。

 

「自分」を自分以外のものと区分しているから、”自分が存在している”(と認識している)

それだけなんだね。

ちなみにこの「自分を認識する作用」のことを『自我』という。

自我は認識する”作用”であって、”主体”じゃないことがミソだ。

 

まとめると

自分:「自分」⇄「他者」  っていう区分されたもの

自我: 自分 「自分」  っていう認識作用

 

 

創世記でアダムとイブが蛇にそそのかされ

「禁断の知恵の実」を食べたとき、二人は葉っぱで自分の体を隠したという。

 

人間が「知恵」を獲得して最初にすることがそれか?

もっとすごい事しても良さそうなのに。

でも最初にしたのは体を隠す事だったのだ。

つまり「知恵」を獲得したと同時にアダムとイブは「自我」も獲得した。

だから「恥ずかしい//」っていう感情が出てきたんだね。

 

それまで楽園の他の動物たちと一緒に

「草うめえ」とか「木ノ実美味しい!」って幸せに生きていたが、

知恵と一緒に自我を獲得した事で

「私は他の動物たちとは別個の個体だ」というめんどくさい感情が芽生えてしまった。

そして

自我が芽生えたことで「さみしい」という感情も生まれる。

だって「自分」は自分一人だから。

 

話が長くなったので次に続く。